「時」というものにブレーキペダルがついていたらと思うんです。
さらには車のようにバックギヤが付いていたらと思うんです。
「時」は前にしか進まないし、止まらない。
まぁ、これって宇宙の運行その物なんでしょうか?
入院とか、治療で、今まで注文を断っていたので果たしてこれが戻って来るのかと心配してたが、9月になって、戻って来たのです。
我々夫婦と、やはり若いとは言えないパートさん一人で頑張っているのですが、なんとかやっている。
その「因幡のくりまんじゅう」を精出して作っているときに、店へ客が来たしらせのピンポーンが鳴った。
女将が「はい、いらっしゃいませ。」と言いながら店へ出た。
すぐに私を呼ぶんですよ。
「ちょっと待って。」とくりまんじゅうの形づくりをやめて店へ出た。
高校の時の同じクラブのHさんでした。
小中高と同じ学校でした。いや、保育園もそうだったかもしれない。
「ひさしぶりだなぁ、元気なだか?」と問うと、このHさんは「元気でない。」と答えるんです。
店の水道で手を洗いながら、「なんでいや?」と問うと「透析しとるだがな。一週間に三回で、一回に三時間だが。」とのこと。
この私も二月に膀胱癌が見つかって、三月に入院して手術と、そんな年齢だろうかと思うんですが、[え?Hもかいな!]と言った気持ちですよ。
この日は今年亡くなったHさんの母親の法事の菓子の注文でした。
我が家の母親は去年、女将の母親もそうでした。
なんか似ていますねぇ。
まさしく同年なんですねぇ。
昔、場所は湖山池、高校のボート部のころ、Hさんはストロークを漕いでいました。
主に漕ぐピッチを司る、艇の進む左側なんですが、私もこのストロークサイドの二番を漕いでいたんです。
Hさんにピッチを会わして漕ぐんですが、二番は逆サイドの三番と一緒にエンジンと言われていました。
あの頃は元気でした。
ひょいと思い出すのが、体操の授業の時に、二クラスが一緒にするんですが、腕立て伏せをしたことがあるんです。
先生が、十回までは?二十回までは、と聞いたのかな。
私は五十回か、六十回の所で手を挙げたんです。
同じ回数でもう一人いた。
同じボート部のKさんでした。
で、これ以上はもうおらんだろう、と、たぶんKさんも思ってたのではないか。
ところが、我々より十回多いところで、ただ一人手を挙げたやつがいたんですが、それが、Hさんでした。
こういうのを心の苦笑いというのでしょうか。
まぁ、もう六十年近く昔のことですが、この年齢になってまで、私は膀胱癌でHさんは透析と同じようなえらい病になってしまったもんです。
さてさて、明日も「因幡のくりまんじゅう」を造ります。
そういえば数年前にボート部で集まった横浜の桜木町駅。
ここに連なる建物にあるお店からも注文がありました。
これも見えない縁なのでしょうかねぇ。