昨日のポルトガルが舞台の映画の原題は「NIGHT TRAIN TO LISBON」でした。
さらに日本語の題名は「リスボンへの誘い」でした。
いやはや、わし、いけんで。
で、1973年(昭和48年)でさえレジスタンスがどうのこうのとこの映画ではあったんですが、独裁政権が政治を握ってたんですよ。
で、私たち夫婦が結婚した年1974年に革命が起きたとのこと。
さらにこの年の前後に各植民地を失うことになったようです。
と、いうことは檀一雄さんがポルトガルへ行ったのはまだ独裁政権の時代ではなかったかと思います。
「来る日去る日」の庶民は明るかった。
そうだ、高倉健さんがこの檀さんの跡をテレビ番組で追ったんですよ。
このブログでも載せてる。
どこかに。
ヨーロッパの西の端のことがらです。
知らんかったです。
ポルトガルからだと思うんですが、信長が西洋鎧を着けて、さらにマントも身に着けていたりするんですが、司馬遼太郎さんの対談集では、その時代に世界の流れ、変化を承知してたのは当時信長だけしかいないのではないかと、ありました。
地球儀も手に入れてる、地図も手に入れてる。
世界の大航海時代の流れに身を置いて、「日本」を眺めてる。
そう、云ってた。
そんなに教養はないものの、直観力がすぐれてるというか、天才なんですよ。
明智光秀は秀才?真面目?とてもいい人だと思います。
家来として仕えるならなら光秀のほうがいいと思いますよ。
あたりまえの良さがあります。
順当な世界があるんです。
だが、謀反の時にはだれも光秀に仕えようとするものは従来の家来以外はいなかった。
力?大きさ?実力を認めなかったのでしょうかねぇ。
で、信長さんですが、そういった人物が他に日本にいたか?と考えると、それは幕末の勝海舟だと述べてるわけです。
幕末当時の幕府がつぶれかけてるときに江戸城無血開城をしてますし、これは大人物の西郷さんが相手だからできたんでしょうが、世界のことは勝さんがより承知してたとのこと。
故に外国の介入を許さなかったわけです。
日本が植民地になるのを防いだわけです。
咸臨丸でアメリカに渡った時にも次の時代の日本の姿を胸の内へ描いてたようです。
話は変わります。
この画像は仁風閣の説明文を読んでる女の子ですが、元気みたいで、体を動かしながら読んでる。
もちろんすれちがう時、「おはようございます。」との挨拶。
元気ってのはいいですねぇ。
画像はまだかなりあるが話は終わりです。
困った。
画像のみ、つづく。