魚の目ですよ。
このブログを見てる人は経験があるのかないのか?
ためしにネットで調べるとドイツでは、16世紀かな、鶏の目、鳥の目、死体の棘などと言ってたようです。
イギリスでは角。
どれもその雰囲気わかります。
我々黄色の人にも、黒人の人にも、そして、白人の人にも魚の目はできているんですよ。
人類共通の魚の目です。
ワシの場合、最近右足にできたんです。
これって足の裏の位置を説明しようとすると、なんとむずかしい。
その部位の言葉がないんです。
顔なんかだったらきっと説明は簡単だと思う。
まあ、顔に魚の目が出来る人はいないと思いますが。
足の裏は、どうも、世間からあまり注目をあびてはいないようです。
右足です。
隣り合って二つできたんですよ。
で、特効薬ともいえるスピール膏を小さく切って、一個目、二個目と張り替えていました。
大きく貼るのは怖いですよ。
で、何でか知らんが、一個目が、ほら、経験者は分ると思うが、皮が白くなってゴソっと取れる。
同じ処置をしてるのに隣の二個目は、これが、取れそうにない。
なんでだ?
仕方無しに、二個目には、やはり、スピール膏を貼り続けることになりました。
で、その時に女将に見せてやりました。
「ほれ見い、これが魚の目だ~ぁぁぁぁ。」
「気持ちわる~。」
でした。
ところが、どうも最近ワシは魚の目と相性がいいらしい。
なんと次は左足。
右足と対象の同じ場所に小さな一個の魚の目。
「おーい、左足にも魚の目が出来たわいや。小さいのだけどなぁ、見てみぃや。」
こっからですよ。
「あれ?魚の目って一個でも出来るだか?私ぃ、二個出来るもんだと思ってた。」
えっ?
「なんで二個出来なぁいけんだいゃ?」
「だって魚の目だが。魚にはあたりまえで二つ目があるが。」
還暦を過ぎたいまやおばあさんの、世の中六十数年渡って来た、ましてや、独身の時は日赤病院に勤めていた経験があるのに、なんだ?
魚の目を知らない。
考えてみれば世間の目にもおおらかに関係が薄いようです。
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午後からオーブンをつかいました。
190℃のオーブン。
暑い、暑いです。
そりゃ、まあ、ガラス細工よりましですけどねぇ。
(画像は大山バスツアーの続き。)
そうそう、6月に大山賛歌の歌で面白いのがあるとブログに書きましたが、そのYou TubeのYattohganaさんからコメントが入ってました。
本人が歌をうたっているのではなく、本人はアレンジ、演奏、プロデュースとかをやってるとのことです。
あと6バージョンだったかな、大山賛歌のアレンジをしてCDを出しているとのことです。
いきおいのある感じのいい人だと思います。
調べると大山町の観光課で販売してるみたいです。
このCD。
聞いて下さい。
鳥取東部にもこんな歌あればいいのにと思う。
なにかネットというのは顔も知らない人と簡単に言葉のやり取り。
なんか、なじまない感じがします。
ふ~む。
今日はくたびれた。
話は変わりますが右足に魚の目。
それも目が二つ。
なんだか不思議なものです。
これまでにも、この魚の目には経験がありますが、確かに魚の目とか、いや、花の芯とか、おかしなものです。
感じが。
で、スピール膏を貼って数日目。
少々はがれてきてるような足の裏の感触。
今夜がそういった意味では、少し、楽しみ。
ぽこんと暑い皮がとれるんです。
効果抜群。
どうしてそうなるのかはわからない。
歳とってシミがあるところに貼ったら、シミごめ皮膚が取れるかもしれない。
こわいけど。
暑いです。温暖化じゃなくこれは熱帯化と改めた方がいい。
ほんと。
昨日夜、組合の大山(だいせん)バスツアーの準備でビール、またそのつまみを湯所町のSマートで買って、その帰り。
薄暗いなかの出会い橋に葬儀社の案内板が立っていて、見れば、どうも、昔同じクラブのH家らしい。
で、電話するとまさしくそうでありました。
父親が亡くなったとのこと。
明日が告別式。
今年身近に亡くなった人は異常に多い。
明日は注文をこなし、バスツアーの準備もし、明後日は朝早く出かけなならん。
いろいろと面倒なこっちゃ。
話は変わる。
先日「真田太平記」を読み終えました。
こんな長編を読み終えたのは、そう、40年ぶりくらいかな。
戦国時代末期の真田家を中心にした物語です。
もちろんこの時代を題材に文章をものにしてる作家は何人かいますが、作家が変われば目のつけどころもちがい、面白かったです。
池波正太郎さんが描く真田昌幸、信之、信繁(幸村)の物語、そこに草の者。そう忍者がからみます。
基本的には山の中の物語。
長野県、群馬県の小さな武将です。
面白いのは、ここに登場する人物。
滝川三九郎という人がいます。
これは織田信長の下の武将滝川一益の孫です。
昌幸の娘とひょんなことから一緒になり、幸村の娘二人を養女としてきちんと嫁に行かせています。
いっとき、鳥取県の米子、当時豊臣恩顧の中村氏18万石へ、そう、サラリーマンとして勤めてたこともあります。
さらに徳川の旗本千七百五十石にもなり、大阪の陣では家康の使い番として大御所の側近にいたりしました。これは秘書かな?
二代将軍秀忠のとき、
その旗本もとりあげられて京都へ行くのですが。その暮らしの世話をしたのが真田信之です。
読んで見てください。
つるつると読んでしまいます。
三九郎の話は、短編でも書いてあります。
長生きしました。夫婦とも。
たしか、京都でなくなるんですよ。
八十幾つだったか?
ひょうひょうと生き、でも柳生石舟斎の五男でしたか、この人に武道を習うんですが、この影響か一生を束の間と言い切ります。
逆らわず、流されず、なかなかに面白い人です。
脳細胞の連想で話は変わります。
如水という人がいます。
水の如し。
黒田如水。
黒田官兵衛孝高です。
この如水ての、いいと思いませんか?
この人は、とんでもなく能力のあった人です。
その人が如水というからには我々が言う水のようなもの、とは結構違うかもしれない。
ところで、散歩の道筋に景福寺があるんですが、大きな古い墓がドドドントまとめられています。
あまりにもりっぱな大きさなので近くへいって見てみた。
と、如水と刻んだ墓がある。
他の文字は読むこと不能。
まあ、黒田如水とは思いませんが、なんか面白い。
この如水がかわいがった後藤又兵衛の墓はこの曹洞宗景福寺にあるんですよ。
如水の息子の長政はこのブログを見たら、それはなぁ‥‥となんか言うかもしれません。
だって、如水は長政よりも又兵衛の方を認めていたとのことです。
また酔ったかな?