昨日のブログからの画像は久松山へ、鳥取城址への散歩のときのものです。
日曜日でした。
朝早くから久松山の頂上へ上がった人。
ラジオ体操をしている人と、まあ多くは早起きの老人たちですが健康が充満するエリアです。
我々もその時は仲間かな。
高校のときのクラブの後輩 U にも会いました。
石垣が徐々に整備されて、なんかきちんと整ってきてます。
かって30万石といえば前から数えたほうが早い大大名ですよ。
まあ、貧乏だったみたいだけどもねぇ。
で、いま少しずつ読んでいる文庫本。
司馬遼太郎さんの「翔ぶが如く」に書いてあったことなんです。
幕末因幡の最後の藩主は池田慶徳(いけだよしのりという、どの殿さんもパソコンで打ってもその漢字はでてこない難しい名前)さんなんです。
で、この殿さんは最後の徳川将軍となった徳川慶喜の腹違いのお兄ちゃんなんです。
出身は水戸。斉昭の息子です。
水戸出身といえばもちろん攘夷です。
で戊辰戦争では官軍方でした。
さらにその後です。
版籍奉還がすぐにあり、あ、版籍奉還とは江戸時代の藩の土地とそこに住む人々の支配権を朝廷に返すというのか、譲ってしまうわけです。
殿さんは藩知事となって、まだ権力があったんです。
収入もありました。
さらにその後三年ほど経って、廃藩置県となるんですが、ここで確か一時金でのちに収入がなくたったと思う。
さあ、この後かっての藩主は困ったのです。
家来もない、収入もない。
で、島津久光のもとの時代にもどせという意見を容れよと連名で時の太政大臣、右大臣に陳情したようです。
この陳情した元藩主に我が因幡の慶徳さんもいたんです。
ほかには先祖がもと因幡、鹿野の、その明治初期には津和野もと藩主亀井玆監(かめいこれみ)、それどころではない、幕末には賢い殿さんといわれた宇和島藩主伊達宗城(だてむねなり)、福井藩主松平慶永(春嶽)さんなんかもいたそうです。
維新の行方も意味も解ってなかったかもしれないという、なんかそんな感じがしるんですが、どうなのか。
なんか、みんなで渡ればこわくない。
なんて。
考えよう自分で。
人任せにしないで、自分で行動しようで。
この日北中の前の水路は干上がっていた。